西七条村 村誌 研究会

西七條村 村誌 研究会の使命

西七條村 村誌 研究会の使命。

西七條村の歴史を考える会は、西七條村の奥の坊墓地管理委員会から生まれました。村はずれにある先祖の眠る墓地に明治時代からの六体地蔵様が祭られていました。があまりにも古ぼけてきて、ぼろぼろになってきたものをつくり直そうと話がまとまり平成二十一年に竣工いたしました。 墓地委員会が開眼供養をして4ヶ寺のお寺さんに来てもらいました。それから11人の委員たちで村の歴史ををつろうという話が盛り上がりました。私が、その中で一番の年長者でしたので、世話人代表として始まりました。  西七條村は、遠く向日町に乙訓の都が作られた頃より前の時代から栄えていました。丹波街道に面していて、また西国街道にも早くから唐橋を通って大山崎の「油屋」さんとも付き合いがあったのでした。どちらも2時間か3,4時間も歩いていける所でした。

平安京の時代になり、大いに栄えました。月読町という地名の所が墓地のある場所です。西七條村は西野町、中野町、東野町の3町内だけでした。今、平安京の西市の中心であることから自分の住んでいる家も、西市の、ど真ん中で、尚更、関心をもって、この問題に、せいを尽くすことになったのであります。委員の11人はみな古い地元の人たちばかりです。

 地図もごらんになってください。

西七条村の歴史を書く

小林 達治

京都市発行「史料 京都の歴史(全十六巻)第十二巻 下京区」の土地の地名では、「西市の地から西七条へ」と書かれています。この土地が私の生まれた土地であります。

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北は左女牛小路(さめうしこうじ)、(現在の花屋町通)、南は塩小路、(現在の七條小学校の前)、東は西櫛笥小路(にしくしげこうじ)、(現在の七條中学の前の通)、西は野寺小路、(現在の京都武田病院の通)というのが平安京時代の通り名でした。南北の横の通りは、北小路通が中心でした。
縦の通りは、西大宮大路、(現在の御前通)、西靱負小路(にしゆきえこうじ)、(天神通り)、西堀川小路、(西大路通)がありました。四つの外町にかこまれていました。
平安京西市右京七條二坊、三町、四町、五町、六町が中心でした。
私の生まれたのは二坊五町だったのです。
私のうまれた時は昭和二年の八月の暑い時、でした。母の話では転げるように廊下で、でてしまったんだと聞いています。元気な子でした。
偶然に同じ日に前の借家で近藤利兵衛君が生まれたのでした。今菅原さんが住んでいる家でした。近藤君の親はできたばかりの中央市場の警備員で革の長靴を履いていました。

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私の父は兵太郎といい、母はらくでした。五人兄妹の三人目で始めての男の子でしたから、父も母も喜んだでしょう。先に長男を生まれて直ぐになくしていました。進蔵と名づけられていました。本当は次男になるのでした。私は小さい時、前の小川にかかっていた細い橋から三輪車で落ちたという話を聞いています。その橋は幅二尺ほどでした。川幅は五尺ぐらいと想像しています。 昔は 北小路が裏通りになっているのでした。橋は石の橋でした。丸く反っていました。川の下までは やはり四尺くらいあったのでしょう。子供心には怖い橋でした。川の中にタニシがいました。段々があって下へ降りられるように、なっていました。洗濯などの洗いものにしていたのでしょう。川は東から西ヘ向いて流れていました。西の「堀りこ川」に流れ着いていたのでしょう 。
「堀子川」という名はどこでつけられたか、わかりませんが昭和五年ごろに西の方の西京極の境に付け替えられましたのが今、西高瀬川とか天神川とか呼ばれている川です。この川の上流の掛越橋の袂に水門があり、向かいの佐々木さんが、水の調整をしていられたのを覚えています。小学校の裏の方でした。
私の家は大きい家でした。南が表で、北には小屋がありました。その後が土蔵でした。向いがわの道に、また汚い借家の小屋がつづいていました。
当時は北側に家が並んでいました。「ふくちや」という屋号で呼ばれていた佐々木さんは百性をしていましたし、そのとなりは醤油さんの野田さんで その隣も農家でした。山本さんと橋本さんでした。北側の西は西野さんという建具やさんで少し前には上田さんが住んでいました。
その西側にも和田さんと言う大きな農家がありました。
私の西側の家の並びは、西隣はうちの借家で駄菓子やさんでした。またその西の家は橋本さんの借家で四軒の長屋でした。
東の方へ行くと 隣がうちの借家で八百屋さんの小西さん、その隣は川島さんの呉服屋さん。その隣はまた、駄菓子屋さんの生地さんで その隣は稽首庵という尼寺でした。これが西野町と市部町の北小路通の南と北のすべてでした。
平安京時代の「右京七條二坊五町と六町」のすべてでした。

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私の家は百八十坪のある家で、庭には大きい「五葉の松」があります。樹齢は五百年とも八百年ともいわれています。どんどん大きくなって、今の高さは隣の屋根を越しました。五メートルもあります。庭には古い苔むした燈篭がありました。

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前の地震で倒れて火袋が無くなって、今、下におろしています。
手水鉢も二つありますし、役所のひとが見つけてくれた「水琴屈」も壊れていますが先祖がつくっていたのか残されています。庭石はあちこちに何十となく転がっています。大きな物は一メートルを越すものがあります。寐ている石は
とてつもなく大きくて、どうにもできません。石屋さんが来てくれています。
二十年ほど前に植木屋さんが庭を全部ひっくりかえして大工事をしました。
その時出来上がった日に大きな蛇が出てきました。縁起が良いと植木屋さんが喜んで主人の私を呼んでくれました。庭の塀には「離宮垣」を張り巡らしました。自慢のものです。
こんな家で育ちましたが、終戦後は大変でした。財産税とか非戦災者税とか、農地改革などで、大変な時代を乗り越えてきました。
やっと大学は夜間大学で立命館をでましたが、従兄弟の経営する会社を辞めて三十六歳で独立して会社を作りました。住み込みで働いていたのが大阪でした。
西七條村はそもそも、松尾大社の西七条御旅所の祭りが中心なのであります。
四社の神輿が入る御旅所が大事なところであります。宗像社と櫟谷社と四の社と大宮社の四社の神輿と子供の神輿の「武御前社」が入ります。
「宗像社」は西野町と中野町。「櫟谷社」は東野町で三町で西七條村。
「四の社」は梅小路、塩小路、御所の内の村の三村。「大宮社」は唐橋の村のそれぞれの村の神輿でした。
この四社の神輿が祭りの中心であらゆる行事が、催しとして行われるのでした。
松尾大社は西の松尾山にありますが、どうしてここにお旅所があるのか、秦氏の子孫が住んでいたのかも知れませんが、こんな遠い所にお旅所があったのであります。隣の稲荷神社の氏子と隣あわせで山陰線を境にしています。
下京区の一部と西京区、右京区、南区の殆ど全域を氏子としています。十万戸世帯といわれています。愛宕さんの「てつぺん」でといわれるくらいです。
京都市の西半分くらいが「松尾」の区域であります。この大きな祭りが、殆どこの西七條村から行われるのであります。
「櫟谷社」は東野町の神輿ですが、「西中東」という「手ぬぐい」があったくらいの仲良しでしたが、なかなかうまくいきませでした。天神さんというのがあり、綱敷、行衛天満宮の寄り合いでも、三町内で当家を作っていても、東野町がはぐれて、こちらも西野町と中野町の町が分かれてしまうようなことがあります。村の歴史の一つの話題であります。「村」という「しがらみ」と「村」の「見識」と「階級」と「新旧」やら難しい問題をはらんでいるのであります。
「四の社」は「御所の内村」が中心でした。ふるい旧家も多い土地ですし、梅小路も梅林寺など水薬師寺などありまして、江戸時代は官領とされていたところでした。清盛のいたという若一神社がありし日の面影のあるところです。
「大宮社」がここにあるというのが不明なのであります。唐橋村という村が七條村にあるのが、おかしいともいわれます。どうしてここに神輿がおいてあるのかも調査をしたいと、古老たちも頭をひねっているところです。
しかも「大宮」ですしイチバンの上の神さんであるというのに、と問題にしています。祭りでは一番後ろを行く神さんであります。
唐橋地区は、「西寺」あとでもありますし、西寺公園と呼び、金堂山(こんどやま)とも呼び、「旭の杜(朝日のもり)」とも呼んでいます。神聖な神事の行われるところなどであります。六社の神輿がみな集まり、金堂山に並んであげていた所でありました。史跡ということで上げられなくなっていますが。祭りでは「赤飯座」(あかいざ)とよんでいます五軒の旧家がお供えをする行事があります、マタ蒸したお米を入れた「つばなごぜん」を並べて各神輿に、三十本ずつ、くばられるものなどがこの祭りの神事のハイライトのものでした。
これが松尾祭りの概要であります。

24,1,10  記

宗像会に呼ばれたのが四十歳の頃でした。
長老の藤松弁之助さんが家に訪ねてこられました。「どひょうば」をしてくれということでした。「どひょうば」という名は「雑用場」のことでした。「会計」をせよというのでした。前任者は橋本松雄さんでした。
十五歳で茶番をしました。十五の春は数え年の時でした。三人にしかいませんでした。中村昭さんと宮下の孫之(まごゆき)さんでした。西野町だけの「茶番」を三年ぐらいやりました。

宗像会のことを話しましょう。

24,1,8,記

西七条村の中心をしているのが、宗像会であります。

宗像会の始まりは何時の頃かわかりませんが、おそらく十三世紀、五百年か、六百年の昔だろうと推測されます。中心は西大宮大路(現在の御前通)より西をさしています。西靱負小路を中心にした地域の総称です。民家の個数は西野町、中野町、市部町を含めても百戸ばかりでしょう。この地域が神輿を持っていたのです。それが「宗像社」という神輿なのです。神輿を中心とした「座」でしょうか。
北は左女牛小路で、南が塩小路までと、西は野寺小路の範囲でした。
主に長老たちが支配していました。橋本、内藤、北尾、中村、和田、小林、藤松、山田、佐々木らでした。
寺が四カ寺ありました。西蓮寺、安阿弥寺、光徳寺、真導寺、と尼寺が二カ寺、高源寺と稽首庵でした。
それぞれ由緒は江戸時代のようであります。
旧家ばかりで奥の坊という墓地を持っていました。西の端に「繩手」と呼ばれていた春日通に面した所に、五百五十坪の土地でした。
「西七条奥ノ坊墓地管理委員会」の名前で昭和三十五年より「村地」として管理されています。

実は、この土地が元、小林の所有地であったのです。古い手帳に乗せています。
もちろん明治時代以前のものです。今、「村有地」となってしまっています。
いつのころか、一度 調べてみたいと思っています。市役所と資料館の方で調査したいと思っています。古い地図には「小林」としてのっています。

内藤さんにある地図には「小林」として残されています。明治初年は「小林」の名前の土地だつたのです。「奥の坊」という「名前」が、いつの頃なのか、調べてみる必要があります。長老の家にあるものを調べなればなりません。
「北尾、内藤、中村、橋本、小林」だろうとおもはれれます。

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この土地のメンバーで「西七條村 村誌研究会」が一昨年立ち上げられました。
宗像会はその中の一部であります。神輿を持つということは大変な事業であります。しかも六社の神輿の中で最大の八角の鳥をのせた神輿なのであります。重さが一トン五百あります。御旅所に神輿倉がありますが、今は本社に入れています。旅中だけこの土地に滞在します。この神輿の祭事、管理運行をするのが「宗像会」なのであります。
祭りになると、二百人を超す「介丁」と呼ばれる神輿かきが集まるのであります。
その他、祭りには六社の神輿の寄り合いがしょっちゅうあります。そのつど会合をしているわけです。四社連合、三社連合などもあります。他所の神輿の「櫟谷社」と「四の社」と「三の宮社」と「衣手社」と「大宮社」とのより合いです。東四社とかいうのは櫟谷社と四の社と大宮社と宗像社であります。三社はそのうちの大宮社をのぞいた三社という会であります。

そのほかに「川渡し保存会」という会が作られています。
今、「六青」と呼ばれる「六社青年連合会」がすべてを青年会の手で催行してくれています。その上に「奉行」という役職があります。

24,1,9、記

こんど初めて十年ほど長年を勤めた西村為彦さんが奉行をやめたので、新しく奉行職を北尾陽さんが 昨年十一月に決められました。東の奉行であります。私の後任者であります。西村さんの前に私が六年間奉行を務めていたのです。
東の奉行という名は東四社の神幸祭奉行をいいます。西の二社は 「三の宮」と「郡の衣手社」でありました。西は加藤康雄さんが奉行をしていました。父もそうでしたし、北條さんという人もいました。歴代若死にの奉行さんでした。
奉行の仕事は祭りの催行の交通整理やその他の祭事を決める重要な行事の進行の順位などを協議し、祭りの安全なことを行事を検分するのが役目でした。
祭りの日は「武家装束」で祭り行列の前後を守っていました。前を西の奉行で最後の後を「東の奉行」が宮司と同乗して乗用車で守っていました。おいで(神幸祭)も、お帰り(還幸祭)も同じでした。

24,1,10,    記 小林

松尾祭りは、地元の青年たちだけで催行している稀有の存在であります。都会では珍しい存在だと自負しています。総勢では、千五百人を超す団体です。
「川渡し」には一隻だけは神輿舟で、あと二隻の伝馬船を船頭が三人つきで、介丁舟といいますのを運ぶわけであります。これにはモーター付きで,介丁を三十人ずつ乗せて往復するわけです。多い時は三回往復します。その間に神輿船はゆっくりと岸に寄せられて介丁たちに迎えられて上げて岸に運ばれます。
勇壮な川渡しを、沢山の見物人が三時間以上も待ってこの盛儀を見るわけです。
実にすばらしい「川渡し行事」であります。六社の神輿が、こうして川渡りするのを「川渡し保存会」という組織でやっています。一社で大体三拾分以上かかりますので見ごたえがあります。「とりみこし新聞」を取り上げます。創刊は昭和五十六年二月でした。
「とりみこし」は勿論、宗像会のことであります。
それより前 宗像会ではいろいろ催しをして古老の人たちに昔話を聞いてみようとしていたのです。昭和五十七年三月二十二日に安阿弥寺で会合をして老人たちの話を聞きました。録音テープをとってしたのですが、まとまりのある話が取れずにいました。橋本武尚君が懸命に努力をして新聞の発行にこぎつけたのでした。残念にも平成二年に十八号で廃刊となりました。いきさつにはいろいろありましたが残念でした。時の会長の山田さんの一言が、問題となりました。武尚で、不適人ということだったのでしょうか。よくできていましたが。

とりみこし新聞は、武尚君の発行ですが、よくできていますが、制作の過程では色々問題があるのです。一人でやったのは大したものですが、いきさつに、深い問題があるのです。まず新聞の発行に、問題があります。途中で山田さんが発行を止めたのも山田さんでした。武尚一人であることに疑問をしてたのでしょうか。彼は残念がりました。そして「洛西」本文の中に「とりみこし」をいれたのでした。

これから、「とりみこし新聞」に投稿された記事を転載致します。
また「洛西」という松尾大社の機関紙に投稿されたものをも転載いたします。

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とりみこし
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